指圧で日本を変える
気療で世界を変える
厳格な父は日々の激痛に耐えていました。そしてまた几帳面な父は激痛が来た回数と時間を書きとめていました。
10日も同じ症状が続き流石に精神的に参ってしまった父親に母親が『ダメ元でいいんだから息子に治療してもらったら』と言ってもらいました。
そして父親は渋々私の治療を受ける事になりました。
激痛の走る右足には必ず邪気(疲れ)が溜まっているだろうと思い、丹念に触診していきました。しかし何処を探しても邪気(疲れ)がありませんでした。
これはマズイと思いました。治療する上での私の大事なガイドラインがないからです。
しょうがなく指圧ではなく気療で治す事にしました。先ずは頭に気をかけ、その後心臓、丹田、患部と50分程気をかけました。
『はい終わったよ』と私が声をかけた途端にまた激痛が来ました。それでも少し時間をおいて様子を診てみようと思いました。
父親は激痛に耐えながらムスッとしたままでした。
『治ってないじゃないか』といった気持ちだったと思います。
次回はこの続きを書いていきたいと思います。
気療を続けて3ヶ月が経った頃仕事に行こうと外に出た瞬間にいつもと違う感覚がありました。
それまで自己嫌悪の塊だった私が『こんなダメな自分でも受け入れてみようかな』と何気なく思えたのです。
するとそれまで重苦しかった気持ちが少し軽くなりました。うつ病以来ダメな私を否定し続けた私にとっては突然の気持ちの変化に驚きました。
それまではうつ病に関する様々な本を読んだりして心の有り様を実践しようと何回も試みたのですが、頭では判っているのですが全く心が動かない状態でした。
それが気療エクササイズを始めて3ヶ月で最初の心のきっかけが自然に訪れた訳です。
ダメな自分を受け入れられるようになってからは気持ちが軽くなり、少しづつですが考え方も良い方向へと向かうようになりました。
気療エクササイズをしたお陰で身体の気の滞りや気のエネルギーの不足が改善されてきたのだと思います。
身体が健康に向かうに従って心が身体に勝手について来たような感覚でした。
この経験は後の私の治療に多いに役立つ事になります。
うつ病という精神疾患を精神的な面から何とかしようとしていた私が身体を健康な状態に持って行く事で心も自然に改善されて行く事実を身を持って体験出来た訳です。
この現象には本当に驚きました。
良く考えますと身体が不調なのに精神面が充実する筈もなく、普段の精神面の在り方も大事ですが病気になったら(特に精神疾患)先ずは身体をいたわり身体の健康レベルを上げる事が大事だという事が判りました。
それからの私は精神面に目を向けるよりも身体の健康レベルを注視するようになりました。
そして気療エクササイズで身体が健康になればうつ病は勝手に治るのではないかと変な期待をするようになります。
次回はこの続きを書いていきたいと思います。
東京に住んで気療を学ぼうとしていた私はその旨を先生に伝えました。
しかし以外な事に週1回のペースで2年間エクササイズを行う事で十分気療が体得出来ると教えて頂きました。
それで山形から仕事の休みの日を利用し通う事にしました。
全国から私のような方が学びに来られていましたので、山形から通うという事は珍しくありませんでした。
私のような一般の生徒の他にも接骨院の先生、指圧師の先生、整体の先生、国会議員の先生等が通っておられました。
やはりご自身の治療に役立てたいという思いから学びに来られていました。
そうした先生方が学びに来られる『気療』は凄いと改めて思いました。私も1日でも早く気療を体得するべく毎日エクササイズをしました。
初めの頃は当然ですが気に対する感覚がないものですから、神沢先生に教えて頂いたエクササイズを信じて繰り返し行っていました。
すると少しづつですが手のひらにピリピリした感覚や痛み感覚、重い感覚、スースーする感覚等が判るようになってきました。
ようやく『気療』の扉を開いたような嬉しい気持ちが今でも思い出されます。
こうした感覚を掴んで来るとどんどん楽しくなってきます。
それと同時に3ヶ月が過ぎた辺りからうつ病が軽くなって来ました。私の身体が良い方向に向かいつつある事が実感出来たのです。
気療のおかげで私の身体がどんどん変化していきます。
次回はこの続きを書いていきたいと思います。
その当時インターネットという便利なツールがまだ身近なものではなく、神沢先生に関する情報が殆どありませんでした。特にパソコンが苦手な私だからという事ありますが。
そこでテレビ局や出版社に連絡先を聞いてみたところ当然あっさり断られ、先生の著書に載っていた住所を頼りに東京へ行く事にしました。
先生にお会い出来るまで帰らないという覚悟でした。
なんとか南青山にあるマンションまでは行く事が出来ましたが、先生がご不在でマンションの管理人さんにお願いして管理人室で待たせて頂く事になりました。
管理人さんの優しさに今でも感謝しています。うつ病の私は不安でいっぱいでしたので、管理人さんの存在は本当に心強かったです。
初日、2日目とお会いする事が出来ず手紙を書く事にしました。手紙と履歴書を先生のポストに入れその日も諦めてカプセルホテルに帰りました。
3日目の朝携帯に先生から連絡を頂き学校の見学をさせて頂ける事になりました。
その時は本当に嬉くて興奮したのを覚えています。
やっと神沢先生にお会いする事が出来て入学も許可されました。
先生は誠実で優しさに溢れる方でした。それと全然偉ぶらないところに驚きました。これ程の先生が私のような者に気さくにお話し下さる事に感激しました。
うつ病絶好調の私でしたが何か光が差し込んだような感覚になりました。
そしてなんとしてもその光を辿って前に進んで行きたいと決意しました。
後に分かる事ですが、神沢先生を管理人室でお待ちしていた頃、先生は気療塾学院のパリ分校に行かれていました。
私のタイミングが悪かった訳ですがそれも含めて今では良い思い出です。
次回この続きを書いていきたいと思います。
私は30歳までニューヨークで音楽活動をしていました。そして27歳の時にうつ病になりました。それでも夢を諦める事が出来ずに音楽活動を続けていました。
しかし精神的にも肉体的にも限界だった私は30歳で音楽の道を諦め山形に帰って来る事になりました。
音楽を諦めこれからどうして生きて行こうかとうつ病を抱えながら文字通り鬱々とした毎日を過ごしていました。
将来への不安を抱えながら父親の仕事を手伝いながら悩める日々が続きました。
私は20代の頃から何故か『気』というものに興味がありました。ですので健康になる為の第一歩として地元の気功教室に通いました。
しかし何か決定的なものが感じられませんでした。これは私の勝手な解釈です。それでも気功教室に通う事で『気』に対する興味は大きくなり、将来は気に携わる仕事がしたいと漠然と思うようになりました。
ある日夕食時に何気なく観ていたテレビに後の恩師となる神沢瑞至先生が出演されておりました。
先生は野生の動物を『気』の力で眠らせ倒すというものでした。
次々と倒れて行く動物達を目の当たりにし日本にこれだけ凄い先生がいらっしゃるという事実に衝撃を受けました。
私も先生のようになりたいと強く思いました。
先生は『気』の力で様々な病気を治しておられました。
私も『気』の力を手に入れ自分のうつ病を治し、そして私のように苦しんでいる人達を治したいと思いました。
人生において運命みたいなものがあるとするならば、私にとってはテレビを通じての恩師との出会いだったと思います。
次回この続きを書いていきたいと思います。
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